塾のバイトを面接したが、尽く落ちた話。

こんにちは。

 

日本に帰ってきて一ヶ月半ぐらい経ちました。8月に大学を卒業し、大学院を目指しているので就活もしてなく、しばらくはフリーの身になりそうです。去年の夏休みは日本でアルバイト(日雇い、イベント系、お祭り、接客など)をして二か月で30万以上稼ぎました。しかし、力仕事は自分に向いてないと知り、またイベント系もコロナでほとんど仕事がない状態なので、塾講師をやってみようと思ったのですが、全然うまく行ってません。ほとんどの塾へは履歴書を送ったら、帰ってくるのは所謂「御祈りメール」でした。そして、仮に面接と筆記試験まで進んでも、最後に帰ってくるのは所謂「お祈り電話」です。

 

なんでだろう?アメリカでも結構有名な大学を二重専攻で出ているから、頭が悪いわけではないと考えました。また、教えるのは好きで、高校の時から講師経験はあります。面接のマナーかな?それともスーツを着てないから?等色々考えたのですが、納得いく結論ではありませんでした。

 

そして、よく考えた結果、おそらく根本的な原因は、履歴書に書かれている自分の学歴だと結論つけました。具体的な学校名の公表は避けますが、僕の履歴書の学歴欄はこんな感じです。

 

2004年4月:板橋区のとある公立 入学

2004年9月:中国にとある日本人学校 転校

2010年3月:中国にとある日本人学校 卒業

2010年8月:中国のとある現地中学校 入学

2013年6月:中国のとある現地中学校 卒業

2013年9月:中国のとあるインターナショナル高校 入学

2016年6月:中国のとあるインターナショナル高校 卒業

2016年8月:アメリカ、オハイオ州立大学(歴史、国際関係専攻)入学

2017年6月〜12月:韓国、高麗大学校 交換留学

2018年7月〜8月:台湾、国立政治大学 短期留学

2020年8月:アメリカ、オハイオ州立大学(歴史、国際関係専攻)卒業見込み

 

問題がどこかお分かりでしょうか?日本の義務教育は小学校の段階で止まり、日本の受験経験もゼロです。中学校は中国の義務教育を受け、中国の高校受験を受けた後、高校はインターナショナル高校に入り、アメリカの高校課程を勉強し、アメリカの高校受験を受けて、アメリカの大学に進学しました。日本にあるほとんどの塾は受験目的や日本の教育課程を受けた人たちが成績を伸ばしたいから通うところがほとんどで、まともに日本語で日本の義務教育も、日本の受験も経験したことのない人が日本語で、日本の教育課程を受ける人たちに授業や受験勉強を教えれるわけがありません。実際、率直な感想をとある面接で話したところ、そこの塾長も「まあ、心配するところは(日本での)学歴だな」と言っていたので、確信しました。

 

もちろん、自分的にも納得しています。塾は親御さんから高い学費をもらい、いい成績と進学先を叩き出す責任があるので、まともに教えれない人を教壇に立たせるわけには行かない、と言う事は理にかなっています。それでも、いくつかの面接を通して、斬新な教育理念や、自分で考える力を育てる塾も発見したので、いい経験でした。

 

と言うわけで、英語圏で広く認定されている英語教師の資格も持っているので、アルバイトのリサーチ範囲を英会話と英語学校に向けてみようと思います。

 

それではまた。

 

 

とあるコンビニで働き始めました

こんにちは。

今日はコンビニバイト の初研修日。お店に行き、大まかな説明を聞かされ、そしていきなりレジに入りました。まずは十分間ぐらい、店長がレジ対応しているのを隣で見ながら勉強。テキパキと正確にレジ打ちから商品の受け渡し、チケットの印刷、公共料金の処理までをこなし、その上に丁寧な言葉使いを使い、笑顔で接客している店長がとても輝いて見え、自分も近いうちにここまで上手になりたいと思いました。

 

そして、お客さんがあまりいないうちにレジの操作方法について教わり、最初の接客。「いらっしゃいませー!お預かりいたします。」と丁寧に言葉をかけ、一つ一つバーコードをスキャンして行く。しかし、バーコードが読み取れず、何回も角度を調整したりして、ようやく「ピ!」と反応しました。読み取りも終え、「0000円になります!」と合計を伝え、お金を受け取るのですが、その後の確認作業がまたむずい。お札をお客様の前で一緒に数えて確認するところで、お札の数え方ですら上手にできず。その後も公共料金、タバコ、コンサートチケット、コンビニ受け取りなどを次々に学ぶのですが、本当に頭の中が複雑なプロセスで一杯になり、レジ袋(有料化しました)、箸やスプーン、弁当の温めなどを聞いたり、丁寧な言葉で接待して行く余裕などありませんでした。

 

今日は一時間しかやってないけど、店長からも「焦らずゆっくりやっていけばいい、的確に仕事ができるようになってから速度を上げていこう」と。一時間の勤務が八時間労働みたいに大変でしたが、目標は店長みたいに上手で丁寧な接客ができるように頑張ります。

 

ミスドに通う生活

こんにちは。

 

以前からミスドは大好きでしたが、最近はもっとハマってしまい、時間があれば通いつめる生活になってしまいました。きっかけは5月中のある日。用事があって新宿に行ったのですが、それも早く終わり、夕方に友達と会うまで少し時間があったので、近くのミスドポンデリングを食べようと向かいました。

 

そしたら、限定版で抹茶風味のドーナツもいくつか置いてあり、どれも美味しそうだったので、迷わず一つ買いました。

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もちろん、普通のポンデリングも相当美味しかったのですが、抹茶風味のポンデリングも最高!そして、アイスコーヒーとも相性バッチリです。

 

その数日後、もう一回通ったのですが、今度は違う抹茶風味のポンデリングを買いました。すると、今回は外側に抹茶とチョコソースがあるだけでなく、ポンデリングの内側にも抹茶ホイップクリームがあり、ポンデリングのモチモチ感、控えめの甘さと大人の苦さ、そしてチョコソースが絶妙なハーモニーを奏で出しています。

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数日前に、またミスドに行きました。

そしたら、ミスドから新作の、パンが出てたので、食べてみることに。

www.misterdonut.jp

合計3種類あったのですが、ポンデちぎりパンの明太マヨソースを食べました。ポンデリングと同様にちぎって食べることができるのはとても便利で、パンとしてはとても美味しかったです。しかし、ポンデリングのモチモチ感をパンに活かすのは流石に難しかったようですね。

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という感じで、ミスド生活についてでした。

ではまた。

国の狭間で生きる人の物語

こんにちは。

 

僕はアメリカのオハイオ州大学図書館・地域研究科で司書アシスタントとして3年半勤務していましたが、そのうち半分以上の時間を費やし、トーマス・ソング(Thomas Gregory Song/日本名:小原 博/韓国名:송재동, 以下「ソングさん」と省略)と言う、国の狭間で生きた人の物語を整理した文献集に携わって来ました。ソングさんの人生経歴は僕の歴史研究のために素材を提供してくれ、さらには僕自身のアイデンティティーについても色々考えるきっかけを与えてくれました。本編では、歴史的事実に基づき、いくつか現代では使われていない、もしくは問題視されている名称(例えば:朝鮮人大日本帝国臣民)、国名(例えば:満洲国、大日本帝国等)などを使用しますが、これはあくまでも歴史を客観的に復元してソングさんの物語を再現するためであって、差別的な意図、もしくは過去の栄光を称える目的ではありません

 

ソングさんは1929年に、当時東京在住の朝鮮人(朝鮮半島出身の大日本帝国臣民を指す)家庭にて生まれました。ソングさんのお父さんは鉄道省(現在の国土交通省、JR)の職員で、お母さんは医者でした。1934年に、ソングさんのお父さんが満洲転勤となり、南満州鉄道で働くエンジニアとなったため、ソングさん一家も満洲国の大連市に引っ越し、そこで1946年まで過ごしました。満州にいる間、ソングさんも他の日本人(大日本帝国臣民)と共に日本の教育を受けて育ちながら、同時に西洋の文化、思想、言語も学びました。それゆえに、ソングさんは子供の時から日本語、英語、エスペラント語などを話し、カトリック教会にも通い、「日本人らしさ」と「西洋人の思想」を併せ持つ朝鮮人になりました。

ja.wikipedia.org

www2.sal.tohoku.ac.jp

 

1946年、ソング一家は満洲を占領したソ連軍の協力のもと、大連市からソウル(大韓民国ができる前の)に逃げ、ソウルの在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁のもとで秘書として働きました。秘書として働いているうちに、ソングさんも数人のアメリカ人と仲良くなり、そのうちの一人が、彼の渡米に救いの手を差し伸べてくれた協力者でした。でも、ソウルにいるのに、なんでまた渡米する必要があったのでしょう?原因はいくつかありますが、まず、満洲で第日本帝国臣民として育ったソングさんは韓国語(当時は朝鮮語と呼ばれ、今でも北朝鮮は「朝鮮語」と呼んでいる)を喋れず、朝鮮半島の文化、歴史と価値観についての知識も皆無でした。また、ソングさんの両親は当時のお見合い結婚文化に抵抗し、自由恋愛を経験して結婚したので、ソングさんも韓国社会からかけ離れ、高等教育を受ける機械を失いました。

ja.wikipedia.org

1948年に渡米したソングさんはボストンで高校卒業し、その後ダーツマス大学の数学専攻に進学しました。大学卒業後、ミシガン大学大学院で哲学とライブラリーサイエンスについて研究をしました。しかし、当時の世界情勢は冷戦の真っ最中で、反共産主義の波がアメリカ国内まで影響し、共産主義者の疑いを掛けられた人たちは次々と逮捕されました。ソングさんも、そのうちの一人です。実際、ソングさんは本当に共産主義者ではなかったものの、子供の頃に両親の影響を受けてマルクスの著書を読み漁り、アメリカに行っても図書館で共産主義に関する本を読んだり、講義に参加したり、また大韓民国政府に賛同しなかった、と言う理由で逮捕されました。ミシガン州デトロイト市の監獄で10日間過ごした後に保釈され、その後すぐに米軍に入隊し、アメリカ国籍の取得に向けて動き出しました。

books.google.co.jp

(ソングさんの共産主義者の疑いと、容疑が晴れたことに関する記録。)

1955末から1956年にかけて正式にアメリカ国籍を取得し、その後、ミシガン大学に戻り、修士号を獲得しました。それから、いろんな大学で研究員、講師、図書館の司書として仕事をして、最終的にペンシルバニア州にて落ち着き、2014年に亡くなりました。

 

ソングさんの一生を記録した文献と、ソング家族(先祖代々からソングさんの子孫まで)の記録が残されている族譜、写真、交換した手紙などが、Thomas Gregory Song Papers とSong Family Papersとして、オハイオ州大学図書館にて保存されています。2017年にThomas Gregory Song Papersが図書館に収納されて以来、僕は司書アシスタントとして、卒業までこの文献集の整理、翻訳に携わって来ましたが、この過程で、ソングさんとの「会話」を通じて、自分の「狭間で生きる」経験とアイデンティティーについて考えるきっかけにもなりました。

library.osu.edu

 

自分の「狭間で生きる」経験と、アイデンティティーについてはまたいつか書きます。

では。

 

 コロナ情勢がまだ厳しい中、中国人友達からマスクを一箱貰った話。

こんにちは。

今日は、アメリカ留学中に特に印象に残った話として、全米でマスクが買えない状況下において、中国人友達からマスクを一箱もらった話をします。

 

2020年4月。当時、アメリカ国内で新型コロナウイルスの感染者は爆発的に増加し、大学も仕事もオンラインに切り替わり、全米のほとんどがロックダウン中だった時。その日はロシア語の授業でグループワーク(二人1組)をするために、クラスメートの中国人(当時僕は大学4年、彼は大学一年。と言っても、「先輩後輩」みたいな関係はなく、お互いに思ったことはハッキリ言うし、平等に友達として接して来た。)の寮に行きました。その時、中国大使館と全米の領事館が、各学校の中国留学生団体と緊密に連携し、一人ひとりの中国国籍を持つ在学生に北京政府が支給する健康パック(健康包 Jian Kang Bao)を配りました。その健康パックの中身は、マスク、薬、消毒液、そして中国大使からのお手紙が同封されてました。

 

授業の準備が終わった後に少し雑談をしていたら、クラスメートの中国人がマスク、及び5月の帰国などについて聞いて来ました。さらに、「実家からもマスク送ってもらったから、もし足りないなら健康包でもらったマスクあげるよ!」と一箱(20枚入り)マスクを渡してくれました。自分の分は大丈なのかとか、夏休みの分は足りるのか(彼は夏休みも学校に残る)など聞いても、「心配しないで、困ったときはお互い様さ!君は飛行機の長旅の後、まだ日本でも大変だろうからあげる!」と。

 

当時は本当に「ありがとう」と言い、ありがたく受け取り、あの一箱は今でも使っています。

もうそのクラスメートの中国人に直接恩返しをする事はできないけど、他人を思いやり、必要な人に向けて自分から助けを差し出す精神を自分でも意識し、誰かの役に立てたらな、と思いました。

 

ありがとう。

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健康包について

www.china-embassy.org

www.dealmoon.com

中国の現地中学校とインター高校での軍事訓練(军训)

こんにちは。

 

今日は、僕が中国の現地中学校とインター高校入学後経験した軍事訓練(军训、発音:Jun 第一声 Xun 第四声)について少し話したいと思います。軍事訓練は小学校から中学、中学から高校、及び高校から大学に進学した時に行われ、中华人民共和国国防法》《中华人民共和国教育法》《中华人民共和国兵役法》《中华人民共和国国防教育法》と《中共中央关于教育体制改革的决定》により、学校のカリキュラムの一環に組み込まれています。

 

名前の通り軍事訓練ですので、約一週間、人民解放軍の現役軍人が教官となり(場所は学校のグラウンド、もしくは人民解放軍関連施設)、その教官の元で軍事訓練を受けることになります。訓練内容については、丁寧に布団を畳む練習、背筋を伸ばして立つ、陣形を組んで、回れ右回れ左、「一、二、一、二」のリズムに合わせて陣形ごとの前進や後退、体力作り、眩しい日差しの真下で数時間整列したままじっとすることで忍耐力を培う、脱出ゲームを通じてグループワークを協調性を磨くなどあります。また、訓練後や休憩時間は教官が歌を歌ってくれたり、みんなでゲームをしたり、勉強や恋愛のアドバイスをくれたりと、訓練中の厳しさとは真逆に、優しく親身に悩みを聞いてくれるお兄さんにもなります。

 

軍事訓練は基本的に約一週間と短いですが、訓練の締めとして、軍事パレードでも見かける様に、陣形を組んで前進し、軍人、観客や先生達に敬礼をするパフオーマンスもあります。軍事訓練は体力面と精神面においてとてもきつく、途中で抜けたり、体調不要で倒れる人も数人出て来ますが、教官の指導の下で訓練を無事終了した時のクラスの結束感、チームワーク精神、及び「やり抜いた!」という達成感で一歩成長したという実感を得ることができます。

 

ただ、(場合にもよるが)男子には髪型の要求があり、教官が不合格と認定した場合、野球少年みたいな髪型に強制的にさせられます。僕の場合は、高校の時に髪型で引っ掛かり、丸坊主にされ、友達曰く、「その日から呼んでも返事しなくなったりとポカーンとしてた」と言われました。なので、もう軍事訓練は懲り懲りです。笑

 

軍事訓練について

baike.baidu.com

 

ではまた。

初めまして。

初めまして。

やっすーと申します。1997年9月24日東京生まれの22歳です。

 

簡単に自分の経歴をまとめると、東京在住の中国系日本人家庭(両親は元中国籍で、日本に留学生として来て、卒業後に帰化、結婚)にて生まれ、東京で6歳まで生活したのちに、両親の仕事の都合で中国の広州市に引っ越し、広州日本人学校の小学部を卒業しました。その後に、再び重慶市に引っ越し、重慶方言と中国語(普通话)で授業を進行する中国の現地中学校に入学し、3年間過ごしました。高校は同じく重慶市のインター高校に入学して、アメリカの高校課程を卒業し、大学はアメリカ・オハイオ州の大学の文系を卒業しました。今までの生活した事ある場所は、東京、広州、重慶、コロンバス、台北、ソウルです。

 

家庭環境はと言うと、10歳の時に親が離婚して、18歳になるまでずっと祖父母と一緒に暮らしていました。祖父母は日常生活ではずっと面倒を見てくれてましたが、精神的なサポートは特に得られる事もなく、親もほとんど周りにいないので、ずっと一人で育って来た様なもんでした。

 

言語歴に関しては、日本語(標準語)、中国語(普通话,重庆话)はネイテイブで、英語もアメリカの四年制大学の文系から二重専攻を出たのでそこそこ出来て、韓国語とロシア語も引き続き勉強中です。

 

このブログでは、海外経験、言語学習、離婚家庭で育った経歴、アイデンティティーなどについて書きます。少しでも興味がある方は是非ご一読ください。